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blog ナゴブロ 院長ブログ

ベルリンの壁の向こうに

2019/11/15

11月9日はベルリンの壁崩壊崩壊からちょうど30年の記念の日でした。
今の若い人には歴史の教科書に載る過去の出来事の一つになるのでしょうが、私にとってはリアルに大きな出来事でした。

1989年、横浜市立大学5年生になった私は、以前からの夢であった世界一周のバックパック旅行に旅立ちました。
時代はバブル。あぶく銭に浮かれた世の中と、拝金主義に憧れる人々。そんな世相の中でいつも「何か違う」と感じていました。アウトサイダー気質というか、世の中の本流に対していつも冷めた気持ちの自分が「みんながそっちを目指すなら、僕はこっちを行こう」と思っていたんでしょう。

当時の医学教育も僕のたくらみに有利でした。大学によりカリキュラムは違ったでしょうが、当時の母校は1~2年が一般教養、3~4年が基礎医学、5~6年が病院への登院もある臨床医学という構成でした。1~2年を部活やキャンパスライフで浮かれて過ごした僕にとって4年と5年の間は長期間のバックパッカーを行うラストチャンスだったのです。
資金はアルバイトでの貯金と祖母からの餞別を足した100万円。バイトの単価が高かったことも助かりました。当時家庭教師の時給を5千円頂いていました。それを週に4日。それと飲食店。大学の帰りに中華街のバーで働いていました。よく勉強する時間があったなと思いますが笑、バブルに感謝です。

僕の計画は、日本から香港までの片道チケットを買い、そこで当時底値と言われていた香港の旅行社で西回り世界一周のエアチケットを買います。そのチケットはなんと各駅停車。自分の好きな場所まで移動して、そこで活動したらまた乗り直して次の国へ。もし別の移動手段で先の町へ行ってもそこからまた乗れる。世界一周は4万kmですが、ジグザグに移動して距離が増えても4万8千kmまではOKです。それ以上増えたら超過料金。

準備期間を経て、6月の良く晴れた月曜日に旅立ちました。
母は「出発ね。気をつけて行くのよ。朝は送ってあげるから」と言って、最寄駅まで送ってくれました。・・・出発は成田空港。今思うとドライな親子関係ですが、当時はそれに気がつきませんでした。今、奧さんは「お母さんすごいよね。普通1年間子供が海外に行くなら空港まで行くのに、子離れできてるよねー」と妙な感心の仕方をします。
そんなことは思いもせず勇気凛々、HISで4万円で買った香港までの片道キップを握りしめ、見送る女子がいない寂しさも気づかず笑、成田空港のゲートをくぐったのでした。
香港では、1泊500円程のドミトリーに泊まってバックパッカー達から情報収集して、ついに世界一周チケットをゲット! 20万円のチケットで僕の冒険は始まったのでした。

それからタイ、インド、ドバイを経由してついにロンドン到着。ブリットレイルパスでイギリスを2週間で一周し、ドーバー海峡を渡りパリ在住の先輩の家に転がり込みました。大恩人・足立さんは中学高校時代から仲が良かった1年先輩で、東大から三菱商事へ進んだ秀才。この年は会社の研修でパリ大学に留学中でした。人のいい彼は突然現れた居候をこき使いながらも、パリのいろいろな名所に連れて行ってくれました。


ワルシャワ駅前で4羽の白鳥

そして窓からセーヌ川に立つ自由の女神が見えるアパルトメンで、連夜のパーティー。「うちにコック兼お手伝いが来てさ」と、嬉しそうにお客さん達に僕を紹介してくれました。夢のような時間でした。
足立さんの家を拠点にヨーロッパ中を旅しました。足立さんの車(22年落ちのルノー・キャトー)を借りてパリからモンサンミッシェルまで行ったことも。名物のオムレツは高すぎて食べれませんでしたが。
イタリア、スイス、スペイン、ポルトガル、ドイツ、ポーランド(ワルシャワ・クラコフ・アウシュビッツ)思い出を語ると一晩はかかるでしょう笑。


北極圏の村

移動手段は主に電車。日本で準備した2ヶ月間乗り放題の、ヨーロッパの主な国で使えるユーレイル・パスが大活躍しました。若い頃ヨーロッパを旅行した人ならご存知かな。
当時2ヶ月パスで6万円台が、今9万円程。 30年であまり値上がりしていないですね。
パリから出たり戻ったりの日々の中、ヨーロッパの北端・ノールカップを目指した遠征を行いました。
ドイツから北欧への旅の途中、デンマークで創価学会員の集会でスピーチをしたり、ノルウェーのボーダから北に向かう豪華客船のラウンジでピアノ弾きをしたり、オーロラを見たり。スウェーデン・ストックホルムでおじさんにナンパされて家について行ったら一緒にシャワーしようと言われたり、フィンランド・オスロの有名なユースホステル(YH)チャップマンでなんちゃって寿司パーティーをしたり、不思議な旅でした。


今は亡きノートルダムの鐘

そんな中、衝撃的なニュースが届きました。ベルリンの壁崩壊です。
街角のカフェで、駅の待合で、YH のリビングで、国籍もバラバラな若者たちは興奮していました。今の状況は。どこに行くべきか。これからどうなるのか。
私は英語の日常会話はこなせますが、CNNのニュースの詳細が理解出来るレベルではありません。1番の情報源はYHで回し読みしたNewsWeek。なんて分かりやすい英語なんだ!
そんな聞きかじり情報に胸は高まり、北欧3カ国を駆け抜けて、西ドイツへ向かいました。そして西ドイツの国境にたどり着いたのは11月29日。
東ドイツの中の飛び地であるベルリンへは無料乗り放題のユーレイルパスでは行けず、片道のチケットが1万円近くしました。全く貧乏旅行者の足元を見やがってと嘆きながら、ヒッチハイクすることにしました。

西ドイツの西の端にあるヘルムシュテット駅から徒歩30分、アウトバーンの検問所まで歩きました。晴天。ベルリン目指してワクワクの若者一人。
朝10時から晩秋のドイツで「WEST BERLIN」と書いたプラカードを抱えて立ち続けました。1時間たち2時間たち、なかなか車は止まってくれません。周りに店もない、ど田舎検問所で持参のパンをかじりながら、12時、1時、2時…。残酷に時間は過ぎていきます。寒い。ちくしょう、ここで凍え死ぬのか。
その時、天使が舞い降りました。
馬鹿でかいアメ車。「Hey boy, Come on !」野太い声で呼んでくれたのは、いかつい短髪ブロンドのおっさん。不覚にも涙が出て笑。
アウトバーンを1時間?不覚にも居眠りをしたり、呑気なバックパッカーでしたが(映画では不気味な農場に連れていかれて、地下に監禁されるパターンですね笑)パンクなドライバーはベルリンのラジオDJで、やはり元バックパッカーでした。

「さあ、到着だ!」パンク野郎の一声で凍りついた時計が動き始めました。
降り立ったのは夕暮れのベルリン。夕陽がやたらにきれいで、ざわつく僕の心に全くお構いない落ち着いた街並みでした。


夕暮れのベルリン

翌日、朝食もそこそこにもはや観光地になり始めていたチェックポイント・チャーリーに行くと、、そこには多くの見物人と壁崩壊から20日も経ていたのに立ちすくみ涙する親子や、お土産Tシャツの屋台もありました。僕が買ったTシャツは、壁をまたぎ微笑むスーパーマンのイラストで、顔はミハエル・ゴルバチョフ!


チェックポイント・チャーリー

ブランデンブルグ門も熱気で溢れていました。誰もが歴史の目撃者であることに誇りを持っているかの様でした。


壁の向こうのブランデンブルグ門

西ベルリンのあちこちで気がついたのは、西側からの観光客だけではありません。見るからにダサい社会主義ルックの東からのおのぼりさん軍団。微笑ましかったのは、怪しいエリアのちょっとエロチックなポスターの前で、本当に口をポカンと開けて見つめる一団。男子的には理解出来るんだけど、それは中学生の時に卒業しとくステップだよね笑。

チャーリーポイントで悲しかったのは、壁の前に立てられていた、壁を越えようとして殺された被害者達のいくつもの十字架。最後の日付は89年6月。あと5ヶ月待てば君の夢見た自由は、春の日差しの様に降り注いだのに。


悲しみの十字架


89年はもう一つベルリンにとって特別な年でした。ベルリンフィルの終身指揮者だったヘルベルト・フォン・カラヤンが亡くなり、クラウディオ・アバドが主席指揮者・芸術監督としてデビューした年だったのです。歴史の目撃者としては行かないわけにはいけません。
普段、クラシックなんて敬遠していたロック小僧が安売りチケットブースに並んでフィルハーモニーを聴きに行きました。ベルリンフィルというのはベルリン以外の人の言い方で、ベルリンの人達は「フィルハーモニー」と呼び、それは楽団の名前ではなくコンサートホールのことだという事も初めて知りました。そして堪能した至高の音楽。完成された芸術が、どれほど人の心を豊かにして若者を成長させるのか、気付かされた時間でした。


ベルリンフィルの夜

お約束のYHでは思いがけない出会いもありました。
激動の場所にたどり着くのは、ある種の運命の力が必要です。外務省の旅行注意エリアに指定されるリスクを承知でベルリンに来る人。僕もその一人ですが、なんと小学校の同級生と再会しました。彼女は社会科地図出版会社から某大新聞へ転職し、転職の間の数週間に訪れたヨーロッパの訪問地の一つとしてベルリンを訪れていたのでした。
旅行中、あまり日本人と話さない様にしていた僕ですが、さすがにこれは運命かもと。アオハルのなせる技ですね。
数日間の甘酸っぱい思い出を共有した彼女との再会は、5ヶ月後の帰国の後でした。
その後は、、スキー場で知り合った二人が、東京で再会した時になんとなく感じる違和感というのでしょうか。旅先での魔法が解けて小さな物語が終わる。切ないセピアの思い出でした。

ベルリン。歴史と数え切れない物語の町。
僕にとっては「あの頃」の空気をまとった Another Sky です。