ナゴブロ【東北大震災から10年、心は今も】

なごや耳鼻咽喉科

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耳鼻咽喉科 アレルギー科
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[掲載日:2021/06/30]

東北大震災から10年、心は今も

ブログの更新が久しぶりになりました。
1月に愛犬を亡くした喪失感を、ずっと引きずっていました。

そんな中、横浜市医師会から東日本大震災10周年特集記事の原稿依頼をいただきました。ウィリーが背中を押してくれて書き上げた、少し長い思い出話です。

横浜市医師会報からの転載です。
ずいぶん時は経ちましたが、今でも東北の大地の風を感じています。

2011年の大震災から10年が経ちました。
あの当時、皆さんと同じように無我夢中の毎日でした。そして被災者の方々に何とか寄り添いたいと思っていました。

今回医師会の広報から原稿のお話をいただきました。
10年前の、そして今もつながる僕と友人と子供たちの物語を書いていたら、長い話になってしまいました。お許しいただければこのまま会報に載ることになります。お時間がある時にお読みください。

僕は都内の私立校出身です。そして中高6年間を男子校で共に過ごした同級生には遠慮はありません。
親友・兄弟というのは大袈裟ですが、気心の知れた幼馴染の付き合いです。
その中のひとりが中学の部活の同期であり、東北大学法学部で修士・博士まで進んだ政治学者の宗前清貞先生です。宮城県七ヶ浜町出身の美人保健師と結婚した彼とは、仙台の学会の折に飲み語らう仲でした。

震災後2週間ほどして、彼の所存が心配になり連絡をしました。幸いにも彼と家族は、すでに仙台を離れて生活しており無事でした。当時の彼は琉球大学法文学部の准教授として活躍していました。そして運命なのか、文部科学省のシステムで1年間の研究期間を取り、単身埼玉の実家に滞在し取材・研究中でした。

世の中は復興支援の機運が高まっていました。連日報道される「がんばろう東北」的情報。それに後押しをされるように、何度か連絡を取りやった私たちは被災地に手伝いに行くことにしました。彼は第二の故郷・宮城県の安全確認・支援の他に、政治学者として「被災直後の現地」というフィールドワークもあったのでしょう。

私はといえば、計画停電エリアの関係でクリニックが週に何回かの停電中でした。クリニックビルの5階という当院の立地は、エレベーターが止まると患者さんが上がってくることはなく、その日は半日休診にせざるを得ませんでした。

耳鼻咽喉科の3月といえばスギ花粉症での最盛期。今考えると売上のダメージは現在のコロナ禍同様ひどいものでした。しかし、全国に広がった「がんばろう東北、がんばろう日本」気運から来るアドレナリン放出で痛みも感じず黙々と準備をしました。

当然そこに医師会やDMATなど支援グループに参加するという選択肢があったはずですが、それは全く頭から抜けていました。
無知だった、医師会からの情報がうまく届かなかった、元来集団行動が苦手だった、各地の状況確認を自分でプランで行いたかった、当時の自分に何となく納得します。
3月4月を診療の立て直しで過ごし、GWの4月30日から5月5日までを現地支援の日程にしました。

4月29日の夜、東京で相棒の宗前先生と合流しレンタカーで出発しました。東北道はまだ1車線規制でひび割れの箇所もありましたが、早朝に仙台に到着。
目標は石巻専修大学のキャンパスに置かれたボランティアセンターです。

準備した行動予定は、私は宮城県耳鼻咽喉科医会からの紹介の避難所巡回診療補助を2日分、宗前先生は東北大学教授の県司令業務の手伝い。あとは現地で手伝えることを拾っていく「出たとこ勝負作戦」でした。
実際にはボラセンターで知り合った保健婦さんに手配してもらって、車での往診と巨大避難所の健康相談をお引き受けすることができました。

印象深かったことは、
@巡回診療の実際
自らも被災者である石巻の先生方の手際の良さは素晴らしいものでした。数日前から耳鼻咽喉科の診療が告知され患者が待ち並んでいる避難所。看護師がつかない現場もありましたがテキパキと準備・診療・処方・撤収する手際の良さ。災害医療の現場はこう振る舞うべし、ありがたいお手本でした。

A専修大学のボラセンターの統率
「災害医療」ではなく「被災地支援」の現場管理を見る、得がたい経験になりました。
毎朝8時に大会議室で朝のミーティング。大きなホワイトボードの上部に町の現在の状況・要請項目が、下部には登録のチームのその日の活動内容が書かれます。
ミーティングには各チームの代表が出席し、参加人数と活動内容を確認・報告します。

チームは、泥かき出しチーム、片付けチーム、炊き出しチーム、大工チーム、理容師チーム、マッサージチーム、看護師医療者チーム、保育チーム、移動補助の車両チームなど。

17時には夕方のミーティング。チーム代表がその日の活動状況、気づきと感想、本部や他のチームへの提言を発言します。本部からは昼間に入った情報より現在の状況と新たな要請が発表され、翌日の各チームの活動内容が指示されます。

ホワイトボードに簡潔にまとめられた朝のその日の活動予定、夕方の当日の活動報告は、朝夕ともにすぐにプリントアウトされ各チームに渡されます。
仕事の見える化、他のチームへのアドバイスのしやすさなど、理想的に機能しており本当に感心しました。

この頃、ボラセンターには全国から1000人以上の人がテント持参で集まっていました。
ペットボトルとボンカレーとカップ麺持参で、夜はグランドの凍えるテントで眠り、昼は笑顔で無償の力仕事をする若者達。ある者は有給を取り、ある者達は高校の部活の先生に車を出してもらって、ある者は東京から自転車で。彼らの泥くさい笑顔に日本の希望を強く感じた日々でした。

B志津川、南三陸、そして大川小学校
被災50日で手づかずの現場は心を凍らすものでした。爆心地。街ではなく町が消失していました。再建ではなくゼロから創り上げるレベル。残酷に失われた、そこにあったはずの思い出や歴史。取り戻すことができるのだろうかと心が苦しく感じました。
大川小学校では70人が亡くなりました。ほぼ人災。当時の私の息子と同い年の子供達もいました。本当にいたたまれず、あるご家庭でお花を手向けさせていただきました。
心底から悲しい時、人は泣くのではなく、驚き立ち止まるのだと知りました。

C自衛隊と警察の方達の献身
広い田んぼの泥の中の遺体の捜索や、道路の側溝の泥かきなど、地味できつい仕事を黙々とされる方達。本当にありがたく、声をかけると皆さん全員が「ありがとうございます。そちらもお気をつけて!」と笑顔で返されました。それは驚きであり、そして尊敬に変わっていきました。職業的責任感もあるのでしょう。私たち医療者も初心を忘れず謙虚な気持ちを胸にあれ、と深く感じました。

D街の人たちの心
あまり気持ちを表に出さない東北の方達ですが、ボランティアへの感謝が伝わりました。避難所で買い出し拠点のイオンで、食堂で、ありがとうと声をかけられ、よくしてもらえました。心がほっこりしました。
往診で伺った独居の高齢者宅では、全く理解できない東北弁を30分ひたすらお聞きするという稀な体験も出来ました。近くて遠い東北。そして誰もがみなさみしい。
衝撃の1週間を過ごしたあと、私の心は宮城から離れなくなりました。
週末や休診日を使い、いそいそと石巻に通う日々。現地に少しずつ知り合いも増え時に相談に乗りました。電話で破傷風の相談を受けたり、夏場にハエが大発生してSOSの時には加圧式噴霧器と殺虫液をお届けしました。

事件もありました。現地で親しくなった「小児科医」がいました。石巻のボラセンで大型キャンピングカーで支援の長期滞在をしていて、朝日新聞にも取り上げられた彼が、実は「ニセ医者」だったのです。宮城県警からの突然の連絡で知りました。熱心な人だったんですが。

やがて、私の気持ちは顔が見えて継続出来る支援へと動いていきました。
最初に考えたのは、医療関係への進学を希望する高校生への援助でした。被災された家庭の子供に対する私設奨学金。イメージ的には看護学校進学の経済的援助です。
しかし、これはうまくいきませんでした。
個人の規模だと支援する人数に限りがあるので、選択が必要になります。その選択方法が難しく、実現が出来ませんでした。今考えると、既存の奨学金制度に参加協力したり、同じ志の人を募ったりする方法があったのかなと思います。こだわったのが「顔の見える支援」であったため、信頼関係の構築には時間が足りませんでした。

私がたどり着いたのは、相棒である宗前先生とのプロジェクト「職業体験プログラム」でした。そこにはもう一つの出会いがありました。
石巻の支援活動で知り合ったのは、個人で塾経営をしている木村奈保子さん。彼女は仙台近郊で教室を開く傍、女川町の中学生に訪問個別指導を行なっていました。

木村さんから女川町の話を聞き、女川中学校の子供たちに協力することを考えました。
女川町は本来水産と原発の町。震災以降,原発は休止中です。木村さんの案内で初めて女川町に伺った時、やはりリアスの港町は壊滅的に消失していました。
瓦礫の中に倒壊した3階建てのビルが横たわり、海抜16mの丘の上の町立病院には壁2メートルまで泥水の跡。高台の中学校は水は来ませんでしたが、体育館は一部崩れていました。

心が痛い光景でしたが、仮設住宅建設が始まり、皆さんは少しずつ前を向いていました。
教育者である宗前先生、木村さんと相談を重ねました。
そして私達は女川中学校の子供達に、将来に向けて「職業」を意識することで目標を持ってもらおうと、夏休みに横浜東京に招く職業体験ツアーを企画しました。
地方在住の中学生に、東京の情報量に気後れしないためのポジティブ体験という裏テーマもありました。

女川中学に打診をすると、企画を歓迎していただきました。3年生は受験が近いので2年生でお願いしたい、子供達の部活の夏の大会の日程より8月1週目にしてほしい。話は具体的に進みました。

学校・保護者向けの企画書作成、募集と選別、保護者への説明会。やる事は沢山ありました。そして受け入れ先の営業活動が始まりました。当初いくつかの会社に職業体験のお願いに伺いました。素人の飛び込み営業であったため、残念ながらはじから断られてしまいました。企画書を書き直し、作戦会議で方針を固めました。まず私の立場より医療機関を含める。そして女川町の特徴より、水産や食品関連での研修も。

テーマは「医療と食」
そして私達は力強い協力者に巡り会いました。

まず、横浜南部市場共栄会の皆さん
さんま祭りで女川訪問の際に紹介していただいた縁でご挨拶は済んでいました。私の出身の横浜市立大学病院の通勤路という立地より親近感もありました。
市場食堂の刺身定食は金沢区の鉄板です笑。

横浜中央卸売市場は以前は東神奈川の本場と杉田の南部市場の2ヵ所で運営されていました。昭和から平成にかけて横浜の人口が急増した頃が南部市場の最盛期で、今は市場機能は本場に集約されています。南部市場は2000年代に入り独特のカルチャーを花開かせ管理母体の横浜市を手玉にとるような活躍を見せていました。
勿論その中心には梁山泊的な傑物達がいて、私にとって幸運だったのはまさに女川でご挨拶した方々でした。

ご承知のように女川はサンマの水産基地としてブランディングされており、他にも多くの海産物の扱いで南部市場と以前からお付き合いがあったそうです。
そこに私達が女川の子達の教育支援プロジェクトを提案しに行ったわけで、二つ返事で了解を頂きました。

2つ目は昭和大学横浜市北部病院さん
緑区長津田で開業している医師の私にとって,北部病院は患者さんの紹介先の一つでもあります。
その縁でまずは図々しく、研究会で挨拶した北部病院講師の先生にお願いしたところ、こちらもトントン拍子に話は進みました。部長の先生が大学の支援活動のメンバーであったことも幸いしました。
事務長さんも親切な方でした。私達の趣旨、職業体験の中身を医師看護師だけでなく、検査科、栄養科、医療事務、滅菌管理など病院の裏方の仕事まで含めてほしいとのリクエストにも協力していただけました。

3つ目は、ロイヤルホールディングスさん
ロイヤルホストを筆頭にてんや・シズラー・シェーキーズ、そしてリッチモンドホテルなどを展開しています。当時の社長は横浜翠嵐高校出身でロイヤルとして宮城県山元町で復興支援を行なっていました。つないでくれたのはまた高校の同級生でした。
偶然話したロイヤルの管理職の彼の紹介で、ロイヤルホストの店舗実習、ロイヤルグループの千葉のセントラルキッチンの見学と商品開発、そしてリッチモンドホテルの宿泊まで手配していただきました。

2012年から16年までの4年間、8月に中学生を5人から10人を職業体験キャンプに招きました。正直準備はとても大変でした。
しかし、あの時の中学生達の笑顔と驚きの表情を思い出すと、今でも気持ちが温かくなります。

市場実習で魚料理の実食の時、実は魚が食べられない子がいて大笑いしたり、ロイヤルのスイーツの商品開発実習で、中学生と思えない鋭い意見で工場の皆さんをざわつかせたり、北部病院で看護学生の様な真摯な態度で安心させてくれたり。
ボランティアの皆さんの協力もありがたいものでした。地方都市女川の子として初めてのスイカ体験・乗り換え体験!での電車移動の見守り隊。ホテルの宿泊サポート隊。
チューターとして初回は早稲田と慶応の学生に参加してもらい、2回目以降は横浜市学校保健会でご一緒した田口真穂先生の協力で、横浜薬科大学の学生さん達に大活躍してもらいました。大学生達のたくましさを再確認する機会でもありました。

協力しいただいた皆さんとキャンプを頑張り、気がつくと震災から5年が過ぎました。そして世の中も少しづつ落ち着いてきました。石巻から女川までのJRも再開通し、温泉付きの立派な駅舎ができました。町全体に盛り土がされ、駅前のきれいに整地された区画に店舗が建ち並びました。新しい女川町が動きはじめました。

キャンプ運営は、やってみるとそれなりの負担があるものでした。
4月の新学期からキャンプの募集活動を開始、学校とやりとり、保護者説明会、受け入れ事業所にご挨拶と説明・企画内容の確認、キャンプのしおりの作成、ルートの確認、人数分のスイカ購入。
ボランティアの募集、ミーティングの段取り・開催・報告・当日の人の手配。そしていよいよキャンプ!
同行と朝晩のミーティング、女川までの送り届け、打ち上げ。そして難関の報告書作成。原稿集め、写真の整理、レイアウト作成、印刷発注、参加者関係者への発送・持参でのご挨拶。修学旅行の担当の先生の苦労が本当にわかりました。

毎年4月から10月までの自分の頑張りを讃えながら笑。17年からはキャンプを一旦終了。
別の形で支援することにしました。

新しい支援は、女川中学の図書委員会への書籍のプレゼントでした。今の中学生に伝わりやすい手段として、コミックスを選ぶことにしました。

基本テーマは医療
初年度は、医療マンガの名作「医龍」全25巻を贈呈しました。以降コミックスに強い宗前先生の指導の下、「コウノドリ」「フラジャイル」「Nsあおい」「アンサングシンデレラ」と話題作を選択して寄贈しています。

女川中学女子バスケットボール部の活躍が伝えられた年には不朽の「スラムダンク」を送り、子供達より先生方や保護者に喜ばれたと聞きました。

最後にキャンプ参加OGの1人の話題をお伝えします。
愛梨さんは津波で祖母を亡くし、そうした体験から将来看護師になりたいと話していました。北部病院での実習はとても印象深かった様で、その日の夜の発表会ではいきいきと病院の様子を語っていました。中学の卒業式の祝電の返事もとてもしっかりして嬉しいものでした。

それから数年後、看護学校を無事卒業した愛梨さんが看護師になったという記事を朝日新聞で見ることができました。元々意思の強いお子さんだったのでしょう。しかし、その成長に私達が少しでも関われたのであれば本当に嬉しいことです。医療者として職業体験キャンプ主催者冥利につきます。

参加してくれた愛梨さんを含め子供達に感謝するばかりです。
1000年に一度の災害に見舞われ、東北は大きく傷つきました。多くの人が亡くなり、多くを失いました。新しい何かも生まれました。私たちの心に強い絆として。

2021年女川中学は建て直され、小中一貫教育学校、女川小・中学校になりました。
これからも女川中学校、そして女川町と細くとも長くお付き合いしたいと思っています。

朝日新聞2019年3月8日掲載記事より(転載許可取得済み)

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